つちっくれ

 
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薫です。その13

今日はすでにビール3本目。
段々、ひねくれて行く自分がいる。ひねくれる、じゃないか、拗ねるだ。
母もよく拗ねる。ちょっと私が怒ると、拗ねて知らん顔してみたり、膝が痛むのに一人でポータブルトイレを使ってみたり・・。この性格は母似だな。

twitterでは、色んなバンドのライブのお知らせ。真吾のやってるfacebookでは、今日は「立川反基地駅伝」とか。皆、楽しそうだなぁ。

な~んもない、けど、どこか緊張の糸が切れない、寝不足で、しかも単調な毎日。

だけど、色々な犠牲を払ってきた父や母の生きて来た時代を思うと、な~んもない事ってどれだけ幸せなんだろう。

母は1928年(昭和3年)生まれ。父は1929年(昭和4年)生まれ。
母に昔、「戦争が始まったって知った時に恐いと思わなかった?」と聞いた事がある。「う~ん。もう物心ついた時には日中戦争(1937年、支那事変)がありよったかいね~。あんまりおじ~(恐い)とは思わんかったよ。」
私だったら、どうするだろう。

日本が真珠湾攻撃をして、アメリカに宣戦布告をしたのが、1941年。母、13歳。父、12歳。
今で言えば、小学校5.6年生だ。すでに軍事教育の真っ只中。当時の義務教育は小学校(尋常小学校)6年生まで。母は、さらに高等科(2年)まで進んだが、父は小学校を卒業するとすぐに自ら志願して「予科練」に入った。飛行機に乗りたい!!その夢の為に。

予科練とは、海軍飛行予科練習生、即ち、少年航空兵のことである。(by wiki.また出たっ。)
要するに「特攻隊」を訓練する所。

母の話によると、「とりあえず飛行機が飛ばせるようになったら、上手かろうが下手くそであろうが、片道の燃料を積んで行きよったがね。お父さんも終戦があと1~2ヶ月遅れっちょたら、特攻隊に行っちょって、私もお父さんに会わんかったじゃろうし、あんた達も生まれちょらんかったじゃろね~。」

戦後、予科練に行って、戦死せずに帰って来た人達を「予科練くずれ」と呼んでいたそうだ。
ベトナム戦争から帰還した米兵達が、当時のヒッピーと呼ばれる人達から非難を浴びせられたように・・。
「戦争でお国のために死ねなかった」のと、「戦争で人を殺した」との違いではあるが、「じゃから、私には青春ちゅうものが無いとよ。」と母に言われると、ぐうの音も出ない・・。

今、つちっくれのFB→真吾のページに「日本国憲法第9条にノーベル平和賞を授与してください。」と言うコメントが載っています。署名を集めていますので、よろしかったら。
「憲法改正」「徴兵制」・・。私は戦争は絶対に反対ですからね!!

青春を犠牲にし、年老いた母に国からの援助は厳しいものだよ。介護保険なんて充てにならないからね。
って、私は誰に言ってるんだろ。

ここは私の「つぶやき」の場所かいな?ははは~。



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